ウィーン体制と国民国家の形成の流れと一問一答
ウィーン体制から1848年革命、イタリア・ドイツの統一、ロシアの改革、アメリカ合衆国の発展までを扱います。まず流れの解説を読み、一問一答(34問)と、用語から説明を選ぶ4択で確認します。
一度の正解は「正解済み」、別の日にも正解すると「定着」と表示します。
流れの解説
ウィーン体制
ナポレオン没落後の1814〜15年、ヨーロッパの秩序を立て直すためにウィーン会議が開かれました。議長はオーストリアの外相メッテルニヒで、フランス代表タレーランはフランス革命前の状態に戻す正統主義を主張します。こうして成立した保守的な国際秩序をウィーン体制といい、ロシア皇帝アレクサンドル1世の提唱した神聖同盟などがこれを支えました。
しかし自由主義と民族主義の運動は各地で続きます。1825年にはロシアで青年将校がデカブリストの乱を起こし、ギリシアは1829年にオスマン帝国からの独立を認められました。ラテンアメリカ諸国の独立も相次ぎ、1823年にアメリカ合衆国はモンロー宣言でヨーロッパとアメリカ大陸の相互不干渉を唱えました。
七月革命・二月革命とイギリスの改革
フランスでは1830年の七月革命でルイ=フィリップが即位しましたが、選挙権は富裕な人々に限られていました。1848年には二月革命が起こって第二共和政が成立し、その影響はドイツやオーストリアにも広がります(1848年革命)。ドイツではフランクフルト国民議会がドイツ統一を目指しましたが、失敗に終わりました。同じ年、マルクスとエンゲルスは『共産党宣言』を発表しています。
イギリスでは、1832年の第1回選挙法改正で産業資本家が選挙権を得ました。労働者は男性普通選挙などを求めてチャーティスト運動を起こしました。1846年には穀物法が廃止され、イギリスは自由貿易へ向かいます。
フランス第二帝政とロシアの改革
フランスでは、ルイ=ナポレオンが1852年に皇帝ナポレオン3世となり、第二帝政が始まりました。1853年に始まったクリミア戦争では、南下を図るロシアがオスマン帝国・イギリス・フランスなどに敗れます。
敗北で近代化の遅れを痛感したロシアでは、アレクサンドル2世が1861年に農奴解放令を出しました。しかし改革は不十分で、「ヴ=ナロード(人民の中へ)」を掲げて農村に入ったナロードニキの運動も、農民の支持を得られませんでした。
イタリアとドイツの統一
イタリアでは、サルデーニャ王国の首相カヴールが統一を進め、ガリバルディは千人隊(赤シャツ隊)を率いて両シチリア王国を征服し、サルデーニャ王に献上しました。1861年にイタリア王国が成立します。
ドイツでは、1834年に発足したプロイセン中心のドイツ関税同盟が経済的な統一の土台となりました。プロイセン首相ビスマルクは「鉄血政策」をとって軍備を拡張し、1866年のプロイセン=オーストリア戦争でオーストリアをドイツ統一から除きます。さらにフランスとの戦争に勝ち、1871年、ヴェルサイユ宮殿でドイツ帝国の成立が宣言されました。同じ年、パリでは民衆が自治政府パリ=コミューンを樹立しましたが、短期間で鎮圧されました。
ビスマルクは社会主義者鎮圧法で社会主義運動を抑える一方、労働者向けの社会政策(社会保険制度)を進めました。1878年にはベルリン会議を開いて、ロシア=トルコ戦争後の列強の利害を調整しています。オーストリアは1867年にハンガリーの自治を認め、オーストリア=ハンガリー帝国となりました。
アメリカ合衆国の発展
アメリカ合衆国は1803年にフランスからルイジアナを買収するなど、西へ領土を広げました。その一方で、1830年の先住民強制移住法により、先住民はミシシッピ川以西へ追いやられます。1848年にカリフォルニアで金鉱が発見されると、ゴールドラッシュで西部の人口が急増しました。
西部の新しい州で奴隷制を認めるかをめぐって南北が対立し、1854年には奴隷制の拡大に反対する共和党が結成されます。共和党のリンカンが大統領に当選すると、南部諸州は合衆国を離脱して南北戦争が始まりました。リンカンは1863年に奴隷解放宣言を出し、北部が勝利します。戦後の1869年には大陸横断鉄道が完成し、合衆国は工業国へと発展していきました。
この時代の思想・科学では、ダーウィンが『種の起源』で進化論を唱え、社会にも大きな影響を与えました。
一問一答
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用語から説明を選ぶ(4択)
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