19世紀のアジアの変動の流れと一問一答
オスマン帝国の改革、インドの植民地化、東南アジアの植民地化、清の動揺と改革を扱います。まず流れの解説を読み、一問一答(34問)と、用語から説明を選ぶ4択で確認します。
一度の正解は「正解済み」、別の日にも正解すると「定着」と表示します。
流れの解説
オスマン帝国の動揺と改革
19世紀、オスマン帝国はヨーロッパ列強の圧力と領内の民族運動に揺さぶられました。エジプトでは1805年に総督となったムハンマド=アリーが近代化を進め、帝国から事実上自立します。帝国は1839年から西欧化による近代化改革(タンジマート)を進め、1876年にはアジア初の憲法とされるミドハト憲法を公布しましたが、翌年のロシアとの戦争を理由に停止されました。
アラビア半島では、18世紀半ばにイスラームの原点回帰を唱えるワッハーブ派の運動が起こりました。19世紀後半には、アフガーニーがパン=イスラーム主義を唱え、イスラーム世界の団結による列強への抵抗を訴えました。
インドの植民地化
イギリス東インド会社は、プラッシーの戦い以降インドの支配を広げました。1857年、会社のインド人傭兵の反乱をきっかけにインド大反乱が起こります。イギリスはこれを鎮圧してムガル帝国を滅ぼし、東インド会社を解散してインドを直接統治下に置きました。1877年にはヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国が成立します。
1885年に結成されたインド国民会議は、はじめはイギリスに協力的でしたが、1905年にイギリスがヒンドゥー教徒とムスリムの分断を図るベンガル分割令を出すと、反英運動を強めました。翌1906年のカルカッタ大会では、スワラージ(自治獲得)などを綱領に掲げています。
東南アジアの植民地化
東南アジアでも植民地化が進みました。オランダはジャワで農民に輸出用作物を栽培させる強制栽培制度を行いました。イギリスは1819年にラッフルズがシンガポールを建設し、ペナン・マラッカとあわせて海峡植民地としました。フランスは1887年にベトナムとカンボジアをあわせてフランス領インドシナ連邦を成立させ、アメリカ合衆国は1898年のスペインとの戦争の結果フィリピンを獲得します。そのなかでタイは、ラーマ5世(チュラロンコン)が近代化を進め、英仏の対立を利用して独立を保ちました。
アヘン戦争と太平天国
清はイギリスとの貿易を広州一港に限っていましたが、イギリスはインド産のアヘンを中国に密輸し、銀が流出しました。清がアヘンの取り締まりを強めると、1840年にアヘン戦争が起こり、敗れた清は南京条約で香港島を割譲し、5港を開きました。1856年にはアロー戦争(第2次アヘン戦争)が起こり、1860年の北京条約で清はさらに譲歩し、ロシアにも沿海州を割譲しました。
国内では、1851年に洪秀全が太平天国を建て、土地を均等に分ける天朝田畝制度を掲げました。太平天国は曾国藩や李鴻章らの率いる郷勇などによって鎮圧されます。
清の近代化の試みと挫折
太平天国の鎮圧後、曾国藩や李鴻章らは、中国の伝統を本体とし西洋の技術を手段として取り入れる「中体西用」の考えのもと、洋務運動を進めました。しかし1894年、朝鮮で東学を中心とする甲午農民戦争が起こり、これをきっかけとした日清戦争に清は敗れます。
1898年、康有為らは光緒帝のもとで政治制度の改革(戊戌の変法)を試みましたが、西太后ら保守派に弾圧されました。1900年には「扶清滅洋」を掲げる義和団事件が起こり、列強の連合軍に鎮圧されて、清は1901年の北京議定書で巨額の賠償金と外国軍の北京駐留を認めます。これに先立つ1899年、中国進出に遅れたアメリカは、国務長官ジョン=ヘイの名で門戸開放宣言を発していました。
辛亥革命
清朝打倒を目指す革命運動も高まりました。孫文は1905年に東京で中国同盟会を結成し、民族・民権・民生の三民主義を掲げます。1911年10月、武昌の軍隊の蜂起をきっかけに辛亥革命が起こり、翌1912年に孫文を臨時大総統とする中華民国が成立しました。しかし清の実力者袁世凱が宣統帝を退位させる代わりに臨時大総統の地位を得て、独裁を強めていきました。
一問一答
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