帝国主義と第一次世界大戦の流れと一問一答
第2次産業革命と帝国主義、アフリカ分割、列強の対立、第一次世界大戦とロシア革命を扱います。まず流れの解説を読み、一問一答(30問)と、用語から説明を選ぶ4択で確認します。
一度の正解は「正解済み」、別の日にも正解すると「定着」と表示します。
流れの解説
帝国主義の時代
19世紀後半、石油と電力を動力源とし、重化学工業が発展する第2次産業革命が起こりました。巨大な資本を持つ企業が生まれ、列強は原料の供給地や市場、資本の投下先を求めて、アジア・アフリカを植民地や勢力圏に組み込んでいきます。この動きを帝国主義といいます。
アフリカ分割
イギリスは1875年、ディズレーリ首相のもとでスエズ運河会社の株を買収し、エジプトへの影響力を強めました。1884〜85年のベルリン会議でアフリカ分割の原則が定められると、列強の進出は一気に進みます。
イギリスは、ケープ植民地首相セシル=ローズらのもとで、カイロ・ケープタウン・カルカッタを結ぶ3C政策を進め、アフリカを南北に縦断する形で支配を広げました。これは横断政策をとるフランスと衝突し、1898年にはスーダンでファショダ事件が起こります。また1899年には、ブール人の国と南アフリカ戦争を戦いました。こうしてアフリカはほぼ全域が列強に分割され、独立を保ったのは、1896年のアドワの戦いでイタリア軍を撃退したエチオピアなど、ごく一部でした。
列強の対立
ドイツのヴィルヘルム2世は、ビスマルクの引退後、世界政策と呼ばれる積極的な対外膨張策をとりました。ベルリン・ビザンティウム・バグダードを結ぶ3B政策は、イギリスの3C政策と対立します。
ヨーロッパでは、1882年にドイツ・オーストリア・イタリアが三国同盟を結びました。これに対し、1907年までにイギリス・フランス・ロシアの間で三国協商が成立し、二つの陣営が向き合います。ドイツは1905年と1911年にモロッコ事件を起こしてフランスに対抗しましたが、かえって英仏の結びつきを強めました。民族問題が複雑に絡み合うバルカン半島は、「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれました。
第一次世界大戦
1914年6月、ボスニアのサライェヴォでオーストリアの帝位継承者夫妻がセルビア人の青年に暗殺されました(サライェヴォ事件)。これをきっかけに第一次世界大戦が始まります。ドイツ軍の進撃は9月のマルヌの戦いで止められ、戦線は長期化しました。各国は国民や経済のすべてを戦争に動員する総力戦を戦います。
1917年、ドイツが無制限潜水艦作戦を始めると、アメリカ合衆国が参戦しました。イギリスは戦争を有利に進めるため、アラブ人にはフサイン・マクマホン協定で戦後の独立を約束し、ユダヤ人にはバルフォア宣言でパレスチナでの民族的郷土の建設を支持するという、矛盾した約束をしました。これがのちのパレスチナ問題の原因となります。
ロシア革命
ロシアでは戦争による生活の悪化から、1917年3月(ロシア暦2月)に二月革命が起こってロマノフ朝が倒れました。続く十一月革命(十月革命)では、レーニンの率いるボリシェヴィキが臨時政府を倒し、ソヴィエト政権を樹立します。政権は1918年にブレスト=リトフスク条約でドイツと単独講和を結び、1919年には各国共産党の国際組織コミンテルンを結成しました。内戦期には穀物の強制徴発などを行う戦時共産主義をとりましたが、1921年からは市場経済を一部認める新経済政策(ネップ)に転換しました。
ヴェルサイユ体制とワシントン体制
1918年1月、アメリカ大統領ウィルソンは、秘密外交の廃止や民族自決などを含む十四か条を発表しました。大戦はこの年の11月に終わり、1919年のパリ講和会議で、連合国とドイツの間にヴェルサイユ条約が結ばれます。ドイツはすべての植民地を失い、巨額の賠償金を課されました。1920年にはウィルソンの提唱で国際連盟が発足しましたが、アメリカ自身は議会の反対で参加しませんでした。
アジア・太平洋地域については、1921〜22年のワシントン会議で海軍軍縮や中国問題が話し合われました。敗戦国ドイツでは、1919年に男女普通選挙と社会権を定めたヴァイマル憲法が制定されています。
一問一答
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用語から説明を選ぶ(4択)
用語を見て、正しい説明を4つから選びます。似た種類の用語の説明と比べて選びます。回答後に正しい用語との対応を確認できます。キーボードでは1〜4で選べます。