主権国家体制と絶対王政の流れと一問一答
スペイン・オランダ・イギリス・フランスの盛衰、三十年戦争、プロイセン・オーストリア・ロシアの台頭を扱います。まず流れの解説を読み、一問一答(37問)と、用語から説明を選ぶ4択で確認します。
一度の正解は「正解済み」、別の日にも正解すると「定着」と表示します。
流れの解説
主権国家と絶対王政
16〜18世紀のヨーロッパでは、明確な国境と独立した主権を持つ国家(主権国家)が並び立つようになりました。国王は官僚制と常備軍を整えて権力を集中させ、王権は神から授けられたとする王権神授説がこれを支えました。このような政治体制を絶対王政といいます。
スペインとオランダ
16世紀にはスペインが最盛期を迎えました。フェリペ2世は1580年にポルトガル王位も兼ね、「太陽の沈まぬ国」を支配します。しかしカトリックを強制されたネーデルラントの新教徒が反乱を起こし、北部7州は1581年に独立を宣言しました(オランダ)。オランダは17世紀前半に中継貿易で繁栄し、世界の商業の中心となります。
イギリス革命
イングランドでは、エリザベス1世が1588年にスペインの無敵艦隊を破り、1600年には東インド会社を設立しました。17世紀になると、国王と議会の対立が深まります。1628年に議会はチャールズ1世に権利の請願を出しましたが、国王はこれを無視しました。ピューリタン革命ではクロムウェルが国王を処刑して共和政を樹立し、1651年には航海法を定めてオランダの中継貿易に打撃を与えました。
王政復古ののち、1688年の名誉革命でオランダからウィリアム3世と妻メアリ2世が迎えられ、翌年、議会の権利を確認する権利の章典が制定されました。18世紀前半のウォルポールの時代には、内閣が議会に責任を負う責任内閣制が確立しました。
フランスの絶対王政
フランスでは、新旧両派の争いであるユグノー戦争が続きましたが、アンリ4世が1598年にナントの王令を出して新教徒に信仰の自由を認め、戦争を終わらせました。ルイ14世は「朕は国家なり」と言ったとされ、絶対王政の全盛期を築きます。財務総監コルベールは重商主義政策を進め、パリ郊外にはヴェルサイユ宮殿が建てられました。しかし1685年にナントの王令を廃止すると、商工業者の多いユグノーが国外に流出しました。ルイ14世はスペイン継承戦争を戦い、1713年のユトレヒト条約で講和しています。
三十年戦争とドイツ・ロシア
ドイツでは、1618年にベーメン(ボヘミア)の新教徒の反乱から三十年戦争が始まり、ヨーロッパ諸国が介入する国際戦争となりました。1648年のウェストファリア条約で、スイスとオランダの独立が国際的に承認され、ドイツの諸侯はほぼ完全な主権を認められました。
18世紀にはプロイセンが台頭します。1740年、マリア=テレジアの即位に異議を唱えたプロイセンなどがオーストリア継承戦争を起こしました。オーストリアは宿敵フランスと同盟を結び(外交革命)、プロイセンとの間で七年戦争が起こります。「君主は国家第一の僕」と述べたプロイセンのフリードリヒ2世は、啓蒙思想の影響を受けた啓蒙専制君主として知られ、ポツダムにサンスーシ宮殿を建てました。
ロシアでは、ピョートル1世が西欧化を進め、1700年からの北方戦争でスウェーデンからバルト海の覇権を奪い、新都ペテルブルクを建設しました。エカチェリーナ2世はプガチョフの農民反乱を鎮圧し、ロシア・プロイセン・オーストリアは1772年から3回にわたってポーランド分割を行いました。
英仏の植民地抗争
17〜18世紀には、イギリスとフランスが北アメリカとインドで植民地を争いました。インドでは1757年のプラッシーの戦いで、イギリス東インド会社がベンガル太守とフランスの連合軍を破り、イギリス優位が決まりました。
科学革命と啓蒙思想
17世紀には自然科学が大きく発展し、ニュートンが万有引力の法則を発見しました。哲学ではデカルトが「我思う、ゆえに我あり」と述べて合理論を確立します。政治思想では、ホッブズが『リヴァイアサン』で、ロックが『統治二論』で社会契約説を論じ、ロックは抵抗権を認めて名誉革命を正当化しました。
18世紀のフランスでは、理性によって古い制度や偏見を批判する啓蒙思想が広まりました。モンテスキューは『法の精神』で三権分立を、ルソーは『社会契約論』で人民主権を説き、ディドロとダランベールは『百科全書』を編纂しました。経済では、アダム=スミスが『諸国民の富(国富論)』で自由放任を説きました。
一問一答
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