中国の古代文明(殷〜漢)の流れと一問一答
黄河・長江流域の新石器文化から、殷・周、春秋・戦国、秦・漢までを扱います。まず流れの解説を読み、一問一答(31問)と、用語から説明を選ぶ4択で確認します。
一度の正解は「正解済み」、別の日にも正解すると「定着」と表示します。
流れの解説
中国文明の起源と殷・周
黄河流域では、彩文土器で知られる仰韶文化、黒陶で知られる竜山文化などの新石器文化が栄えました。長江下流域でも、河姆渡遺跡から稲作の跡が見つかっています。
前16世紀ごろに成立したとされる殷は、河南省安陽市の殷墟で知られる王朝です。王は神意を占って政治を行い、その結果を亀甲や獣骨に刻んだ甲骨文字が漢字の起源となりました。前11世紀ごろ殷を倒した周は、一族や功臣に封土を与えて諸侯とする封建の制度をとり、宗法と呼ばれる父系の親族の規範がこれを支えました。
春秋・戦国時代と諸子百家
前770年、周が都を東の洛邑に移すと、周王の権威は衰え、有力な諸侯が争う春秋時代に入ります。前403年以降の戦国時代には、諸侯が王を名乗って抗争しました。この時代、鉄製農具と牛耕が広まって農業生産が伸び、社会が大きく変わります。
各国が人材を求めるなかで、諸子百家と呼ばれる思想家が現れました。「仁」を説いた孔子、性善説の孟子、性悪説の荀子と続く儒家、法による統治を説き韓非らが大成した法家、「兼愛」を説いた墨子などです。戦国時代の秦は、法家の商鞅の改革で強国となりました。
秦の統一
前221年、秦王の政は中国を統一し、初めて皇帝を名乗りました(始皇帝)。全国に郡県制をしき、文字・貨幣・度量衡を統一するなど、中央集権を進めます。しかし急激な統治への反発は強く、始皇帝の死後、陳勝・呉広の乱をきっかけに各地で反乱が起こり、秦はわずか15年で滅びました。
前漢
項羽との争いに勝った劉邦は漢を建て(高祖)、郡県制と封建制を併用する郡国制をとりました。前154年の呉楚七国の乱を鎮圧したのち、実質的な中央集権が進みます。
前漢の最盛期を築いた武帝は、匈奴を挟み撃ちにするため張騫を大月氏に派遣し、西域への道を開きました。地方長官の推薦で官吏を選ぶ郷挙里選を行い、財政再建のために塩・鉄の専売や均輸・平準を実施しています。この時代に司馬遷は、紀伝体の歴史書『史記』を著しました。
新と後漢
外戚の王莽は帝位を奪って新を建て、周の制度を理想とする復古的な政治を行いましたが、赤眉の乱などで倒れます。その後、劉秀(光武帝)が漢を再興しました(後漢)。後漢では西域都護の班超が西域を支配下に置き、部下の甘英を大秦国(ローマ)に派遣しています。また宦官の蔡倫が製紙法を改良しました。
後漢の後半には宦官と官僚の争いが激しくなり、党錮の禁で官僚が弾圧されます。184年には太平道の張角が率いる黄巾の乱が起こり、後漢は事実上の分裂状態に陥りました。
一問一答
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用語から説明を選ぶ(4択)
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