ギリシア・ヘレニズム・ローマの流れと一問一答
エーゲ文明からポリスの発展、アレクサンドロスの帝国、ローマの共和政と帝政までを扱います。まず流れの解説を読み、一問一答(37問)と、用語から説明を選ぶ4択で確認します。
一度の正解は「正解済み」、別の日にも正解すると「定着」と表示します。
流れの解説
エーゲ文明とポリスの成立
エーゲ海では前2000年ごろからクレタ島のクノッソス宮殿を中心とするクレタ文明が栄え、のちにギリシア本土のミケーネ文明が続きました。これらは青銅器文明で、19世紀後半から20世紀初めにかけて、シュリーマンやエヴァンズの発掘によって存在が明らかになりました。
ミケーネ文明の崩壊後、前8世紀ごろからギリシア人はアクロポリス(城山)とアゴラ(広場)を中心とする都市国家、ポリスをつくりました。ギリシア人は自らをヘレネスと呼び、多くのポリスに分かれながらも同じ民族としての意識を持っていました。
アテネとスパルタ
アテネでは、武器を自弁して戦う平民の発言力が高まり、民主政が段階的に進みました。前594年にはソロンが財産によって参政権を分ける財産政治を行い、債務奴隷を禁じました。前6世紀末にはクレイステネスが陶片追放の制度などを定めています。一方スパルタでは、少数の市民がヘイロータイと呼ばれる隷属農民を支配し、厳しい軍国主義的な体制が保たれました。
ペルシア戦争とポリスの衰退
前5世紀前半、アケメネス朝ペルシアがギリシアに攻め込みました(ペルシア戦争)。前480年のサラミスの海戦では、テミストクレスの率いるアテネ海軍が勝利し、軍船の漕ぎ手となった下層市民の地位が高まります。戦後、アテネはデロス同盟の盟主となり、ペリクレスの指導のもとで民主政が完成しました。
しかしアテネとスパルタの対立から、前431年にペロポネソス戦争が起こり、ポリス社会は衰えていきます。前338年、北方のマケドニアがカイロネイアの戦いでアテネ・テーベ連合軍を破り、ギリシアを支配下に置きました。
ヘレニズム時代とギリシアの文化
マケドニアのアレクサンドロス大王は東方遠征を行い、イッソスの戦いでペルシア王ダレイオス3世を破ってアケメネス朝を滅ぼしました。大王の死後、帝国はプトレマイオス朝エジプトなどに分かれます。この時代をヘレニズム時代といい、エジプトのアレクサンドリアには王立研究所ムセイオンが置かれて学問の中心となりました。
ギリシアの文化では、タレスに始まる自然哲学、「人間は万物の尺度」と述べたプロタゴラスらソフィスト、そしてソクラテス・プラトン・アリストテレスの哲学が生まれました。ヘレニズム時代にはゼノンのストア派などが広まりました。
ローマ共和政
イタリア半島のローマは、前509年に王を追放して共和政となりました。最高官職のコンスル(執政官)は2名で、はじめは貴族が独占していましたが、平民は護民官の設置などを勝ちとり、前287年のホルテンシウス法で平民会の決議が国法として認められました。
ローマはイタリア半島を統一したのち、カルタゴとのポエニ戦争に勝利して地中海の覇権を握ります。第2回の戦争ではハンニバルがイタリアに攻め込みましたが、最終的にローマが勝ちました。しかし征服の結果、大土地所有が広がって中小農民が没落し、グラックス兄弟の改革も失敗します。カエサル・ポンペイウス・クラッススの第1回三頭政治を経て、内乱の時代が続きました。
ローマ帝政
前31年、オクタウィアヌスはアクティウムの海戦でアントニウスとクレオパトラを破り、前27年にアウグストゥスの称号を受けました。元老院を尊重する形をとりつつ実権を握るこの体制を元首政といいます。五賢帝の時代はローマの最盛期で、トラヤヌス帝のときに領土が最大となりました。212年にはカラカラ帝が帝国内の全自由民に市民権を与えています。
3世紀の軍人皇帝時代の混乱ののち、ディオクレティアヌス帝は皇帝を神格化する専制君主政を始めました。コンスタンティヌス帝は313年のミラノ勅令でキリスト教を公認し、325年のニケーア公会議ではアタナシウス派が正統とされました。テオドシウス帝は392年にキリスト教を国教とし、その死後、帝国は東西に分かれます。西ローマ帝国は476年、ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされました。
一問一答
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用語から説明を選ぶ(4択)
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