ヨーロッパ中世世界の流れと一問一答
ゲルマン人の大移動からフランク王国、ビザンツ帝国、封建社会、十字軍、教皇権の盛衰までを扱います。まず流れの解説を読み、一問一答(40問)と、用語から説明を選ぶ4択で確認します。
一度の正解は「正解済み」、別の日にも正解すると「定着」と表示します。
流れの解説
ゲルマン人の大移動とフランク王国
375年、アジア系のフン人に圧迫された西ゴート人がローマ帝国領内に移動を始め、ゲルマン人の大移動が始まりました。5世紀にはフン人のアッティラが大帝国を築きましたが、451年のカタラウヌムの戦いで西ローマ・ゲルマン連合軍に敗れています。
ゲルマン人の国家のなかで最も発展したのがフランク王国です。481年にクローヴィスがフランク人を統一してメロヴィング朝を開き、ローマ教会が正統とするアタナシウス派に改宗して、ローマ系住民の支持を得ました。8世紀にはピピンがカロリング朝を開き、756年にラヴェンナ地方を教皇に寄進しています(ピピンの寄進)。
カールの戴冠と西ヨーロッパ世界の成立
ピピンの子カール大帝は西ヨーロッパの大部分を統一し、800年に教皇レオ3世からローマ皇帝の帝冠を受けました。これにより、ローマ的・キリスト教的・ゲルマン的な要素が融合した西ヨーロッパ世界が成立したとされます。宮廷では古典文化の復興(カロリング=ルネサンス)が進みました。
カール大帝の死後、843年のヴェルダン条約などでフランク王国は分裂し、のちのフランス・ドイツ・イタリアの原型ができます。東フランクのオットー1世は962年に教皇から帝冠を受け、これが神聖ローマ帝国の始まりとされます。またノルマン人が各地に進出し、911年に北フランスにノルマンディー公国が建てられ、1066年にはノルマンディー公ウィリアムがイングランドを征服しました。
封建社会とビザンツ帝国
外敵の侵入が続くなか、西ヨーロッパでは主君が家臣に封土を与えて忠誠と軍役を求める封建的主従関係が広がりました。領主は不輸不入権を持って荘園を支配し、荘園の農民(農奴)は賦役と貢納を負い、移動の自由がありませんでした。
一方、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は都コンスタンティノープルを中心に存続しました。6世紀のユスティニアヌス帝は『ローマ法大全』を編纂させ、ハギア=ソフィア聖堂を再建しています。726年にレオン3世が聖像禁止令を出すと、ローマ教会との対立が深まり、1054年に教会は東西に分裂しました(東はギリシア正教会)。
教皇権の拡大と十字軍
10世紀に創設されたクリュニー修道院を中心に教会改革運動が広まり、聖職者の任命をめぐって教皇と皇帝が争いました(叙任権闘争)。1077年には皇帝ハインリヒ4世が教皇グレゴリウス7世に謝罪するカノッサの屈辱が起こり、1122年のヴォルムス協約で闘争は終わります。
1095年、教皇ウルバヌス2世はクレルモン宗教会議で十字軍を提唱しました。第4回十字軍はヴェネツィア商人の要求でコンスタンティノープルを占領するなど、聖地回復という目的から外れていきます。13世紀初めのインノケンティウス3世の時代に、教皇権は絶頂に達しました。
中世都市と封建社会の動揺
十字軍をきっかけに遠隔地交易が活発になり、都市が発達しました。北ドイツの都市はリューベックを盟主にハンザ同盟を結び、都市では商人や手工業者が同業組合(ギルド、ツンフト)をつくりました。
14世紀半ばには黒死病(ペスト)が流行して人口が激減し、労働力不足から農民の地位が向上します。領主が束縛を強めようとすると、フランスのジャックリーの乱やイングランドのワット=タイラーの乱が起こりました。教皇権も衰え、1303年のアナーニ事件のあと、教皇庁は南フランスのアヴィニョンに移されます(教皇のバビロン捕囚)。教会大分裂はコンスタンツ公会議でようやく収拾されました。
国家の形成と中世の文化
イングランドでは1215年に貴族が王ジョンに大憲章(マグナ=カルタ)を認めさせ、フランスでは1302年にフィリップ4世が三部会を招集しました。英仏間では1339年に百年戦争が始まり、ジャンヌ=ダルクの活躍もあってフランスが勝利します。戦後のイングランドではバラ戦争が起こり、諸侯が没落して王権が強まりました。イベリア半島では1492年にスペインがグラナダを陥落させてレコンキスタを完了し、ドイツでは1356年の金印勅書で皇帝の選出方法が定められました。
文化面では、神学を中心とする学問が発達し、トマス=アクィナスが『神学大全』を著してスコラ学を大成しました。
一問一答
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