明・清と東アジアの流れと一問一答
明の成立と海禁・朝貢体制、清の中国支配と最盛期、周辺地域の動きを扱います。まず流れの解説を読み、一問一答(33問)と、用語から説明を選ぶ4択で確認します。
一度の正解は「正解済み」、別の日にも正解すると「定着」と表示します。
流れの解説
明の成立と洪武帝の統治
紅巾の乱のなかから頭角を現した朱元璋は、1368年に南京を都として明を建てました(洪武帝)。洪武帝は皇帝への権力集中を進め、農村には110戸を1里とする里甲制をしき、戸籍・租税台帳の賦役黄冊と土地台帳の魚鱗図冊をつくらせました。民衆の教化のために六諭を定め、朱子学を官学としています。対外的には、民間の海上交易を禁じる海禁をとり、国家間の朝貢貿易に限りました。
永楽帝と明の対外関係
甥の建文帝から帝位を奪った永楽帝は、都を北京に移し、モンゴル高原に遠征しました。またイスラーム教徒の宦官鄭和に命じて南海遠征を行わせ、東南アジアからアフリカ東岸にまで艦隊を送り、朝貢する国を増やしました。
しかし15世紀半ばには、正統帝がオイラトのエセンに捕らえられる土木の変が起こります。16世紀には北方のモンゴルと南方の倭寇に苦しめられ(北虜南倭)、軍事費が財政を圧迫しました。
明の社会と文化
16世紀になると、国際交易を通じて大量の銀が流入し、各種の税と徭役を銀で一括して納める一条鞭法が広まりました。万暦帝の初期には張居正が財政の立て直しを図っています。
思想では王守仁(王陽明)が「知行合一」を説いて陽明学を開きました。イエズス会のマテオ=リッチが「坤輿万国全図」を作成し、徐光啓は西洋の学問を学ぶとともに農業の技術書『農政全書』をまとめました。明は1644年、李自成の反乱軍に北京を占領されて滅びます。
清の中国支配
中国東北地方では、1616年にヌルハチが女真を統一して後金を建て、その後国号を清と改めました。清は明の滅亡後に北京に入り、中国全土を支配します。漢人男性には満洲人の髪型である辮髪を強制する一方、科挙などの明の制度を受け継ぎ、漢人を官僚として登用しました。
康熙帝は漢人武将による三藩の乱を鎮圧し、1689年にはロシアとネルチンスク条約を結んで国境を定めました。雍正帝の時代には軍機処が置かれ、のちに政治の最高機関となります。反清的な言論は文字の獄によって厳しく取り締まられました。税制では、人頭税を土地税に繰り込んで一本化する地丁銀制が広まりました。
清の最盛期と周辺地域
乾隆帝の時代に清の領土は最大となり、モンゴル・青海・チベット・新疆は藩部として理藩院が管轄しました。1757年には西洋との貿易港を広州一港に限り、特許商人の組合である公行に貿易を独占させています。文化事業では『康熙字典』や『四庫全書』が編纂され、イエズス会士のカスティリオーネは宮廷画家として円明園の設計にも関わりました。小説では『紅楼夢』が書かれています。
朝鮮半島では1392年に李成桂が朝鮮を建て、15世紀に世宗が訓民正音(ハングル)を制定しました。朝鮮では両班と呼ばれる支配層が高い官職を独占しました。
一問一答
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